3.二大叙事詩とバガヴァッドギーター

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1.正統バラモン思想と反ヴェーダ思想

BC1200年リグ・ヴェーダの出現にはじまり、アーリア人によって成されたヴェーダやウパニシャッドのこの文化は、BC5、6世紀ごろには「バラモン教」としてインド社会に浸透していった。(バラモン教はのちのヒンドゥー教といえる)これを、「正統バラモン思想」という。これに反する自由思想家たちの勢力を「非正統バラモン思想」「反ヴェーダ思想」といい、マハーヴィーラによるジャイナ教やゴータマ・ブッダによる仏教を生んだ。正統バラモン思想も反ヴェーダ思想も、<我々は魂の存在であり、業(カルマ)により輪廻転生していて、この輪廻から「解脱」する事が究極の目標である>事は共通しており、その為の方法や考え方が異なるというものである。

2.二大叙事詩とバガヴァッドギーター

バラモン教として浸透していったヴェーダの思想はのちにヒンドゥー教となっていく。また反ヴェーダ思想のうち、ジャイナ教でも仏教でもないものの事もヒンドゥー教と呼んだ。これらは民衆の中で広まっていき、二大叙事詩「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」を生む。中でも「マハーバーラタ」はヒンドゥー教の聖典のうち最も重要なもののひとつとされ、BC4~4世紀ごろ成立したと考えられる。ヨガの聖典として最も重要な「バガヴァッド・ギーター」はこの「マハーバーラタ」の一部(第六巻ビーシュマ・パルヴァンの23章から40章まで)である。

 「ギーターを知らずしてインドを語るのはバイブルを知らずして西洋をあげつらうに等しい」(辻直四郎)
 「あらゆる文学の提供しうる最も美しき、否おそらく唯一無二の哲学詩なり」(ヴィルヘルム・フォン・フンボルト)

 ギーターの内容としては、勇者アルジュナが戦争において敵軍に自分の親族や師匠がいるのを見て戦意喪失している所、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが迷走を払拭するというもので、そのクリシュナの教えは、サーンキャ哲学、カルマヨガ、ヴェーダの教えなどを万人にわかりやすく伝えている。

 <カルマヨガ>

バガヴァッドギーター第三章に記されているのがこのカルマヨガである。カルマヨガとは私たちは自分自身の役割を知り、その役割を果たす為に行動をする。その行動の結果は求めずに行為に集中する事である。

 バガヴァッドギーター第三章「カルマについての章」(やさしく学ぶYOGA哲学バガヴァッドギーター 向井田みお)
(1)アルジュナはいいました。「行いの法則を維持し、行いの結果を等しく与える者ジャナールダナ、クリシュナよ。あなたは、人が悩みや苦しみから自由になるために必要なのは、行いよりも知識であるといったように思うのです。それなのに、なぜ私に戦いという恐ろしい行いを強いるのでしょうか?」
(2)「クリシュナよ。人が自由になるためには真実の知識を理解する他にはないといいました。それでいてあなたは私に戦えというのです。きっと私の理解が足りないからでしょうが、これらの言葉は私の心を混乱させています。どうか教えてください。私がこの悩みを打ちやぶり自由になるためには「知識」と「行い」のどちらをとるべきなのかを。私ははっきりとしたひとつの道を示して欲しいのです。
(3)バガヴァーン•クリシュナは言いました。「罪なきものアルジュナよ。人が本当に自由になりたいと望んだ時、その方法としてこの世界には2つの生き方がある。これは遥昔、世界が始まった時に、私によって『ヴェーダ(聖典)』の中で語られた。私は君に、真実の知識こそが人を自由にするといった。これから語る2つの生き方はどちらもこの同じゴールに繋がっている。最終的に知識によって自分自身を理解し、人は自由になる。1つの生き方は、すべての義務と権利を手放し、知識だけを求める生き方『サンニャーシー(出家者)』として生きること。もう1つの道は、知識を理解する知性を準備するために、自分のすべき事を正しい態度で行い、社会の中で役割を果たし続ける生き方『カルマヨーガ(行いのヨーガ)である。」
(4)「人は単に行いをせず、動かないとういことでは自由になれない。行いに束縛されない「存在」である自分自身の本質を理解することが本当の自由である。体を動かし、頭を使い、話し、聞き、食べるなど様々な行いをしながらも”自分自身が『カルター(行い手)』であるという認識”に縛られない事で、行いから自由になるのだ。それはただ単に『サンニャーシー(出家者)』として、社会の義務と権利を放棄したとしても、叶えられない。」
(5)「この世界で生きるものは、一瞬も動かず、何の行いもせずにはいられない。ずっと坐りつづけたり、眠ったり、息をしたり、考えたり、死ですら生き物としての活動がある。この世界を現している物質の源から生まれた3つの『グナ(質)』は常に活動を続ける。純粋『サットヴァ(純質)』、活動『ラジャス(激質)』、愚鈍『タマス(鈍質)』という3つの質が、すべての生き物を一時も止まる事なく活動させているのだ。」
(6)「たとえ見たり、聞いたり、触れたりという、感覚器官の動きを制御して、何もせずにただ坐っていたとしても、坐ることすら行いである。それに体を動かさなくていてもその人の心が感覚の喜びを思い出したり、想像したりと忙しく動いているなら、それは「行い」をしていることになる。見た目に体が動かないので静寂であるように見えても、心が感覚に惑わされ、騒がしければ、見た目の静寂や行いの放棄は偽善であり、嘘である。」
(7)「アルジュナよ。意思と知恵によって感覚をコントロールし、「行い」を選ぶ基準において自分の主観『ラーガ•ドゥベーシャ(好き•嫌い)』を離れ、『ダルマ(調和)』を基準としている人。何が正しく、何が正しくないか、を基準にして「行い」を選べる人は、『カルマヨーガ(行いのヨーガ)』の態度で行いをする者である。行いを自由への手段とする『カルマヨーガ(行いのヨーガ)』の態度をもって、感覚だけでなく、話したり、歩いたりする行動器官をもコントロールする人は、行いをしていないフリをする偽善者より正しい道を歩んでいる。」
(8)「君のしなければならないものを、結果を恐れず、やり遂げなさい。行いをする事は、何もしないことよりも遥かに優れているから。生き物が何もしなければ、自分の体を維持する事ですら難しい。そもそも生き物として何もしないことは不可能なのだ。」
(9)「自分を生かすこの世界の法則『ダルマ(秩序)』に行いを一致させることが、“行いを捧げる”という意味である。その態度で行いをすることが調和に従う事であり、『カルマヨーガ(行いのヨーガ)』によって人は心から混乱や矛盾を取り除く事ができる。この態度意外の行いは、『ラーガ•ドゥベーシャ(好き•嫌い)』から起こり、人をいつまでも欲望と執着と結果に縛り付け、おわりなく生死を繰り返す『サムサーラ(輪廻•束縛)にとらえられる。アルジュナよ。「好き•嫌い」という思いの束縛から自由になり、行いを『ダルマ(調和)』に捧げるのだ。」
(10)「『イーシュヴァラ(全体世界)』は、この世界の始まりに、人を現すと同時に行いを捧げる術を『ヴェーダ(聖典)』の中で現した。その中で、“行いを『ダルマ(調和)』に一致させ、それによって人が成長し、成長した人同士が繋がり、広がるように。全体の調和に行いを捧げる事が、人の最終的な願いを叶えるように。”と語っている。」
(11)「人は自分の周りの世界を巡らせている法則に守られ、必要なものを与えられ、生かされている。それぞれの法則を司る力を『デーヴァー(神々)』という。それらに感謝し、捧げる態度で行いをするといいだろう。彼らは君の祈りや感謝、捧げる思いを知り、物理的な目では見えない力によって君に思いを返す。人がする「行いと結果の因果関係」は、秩序を司る無数の法則である『デーヴァー(神々)』たちの繋がりによって、それぞれの人のもとに現れる。こんな風に、全体と個はお互いに手を差し伸べ合って関係している。調和を生きる事で、全体との関係を強め、やがて人はあらゆる生き物が望む最高地点を目指す。その最高地点とは、生きながらにして、どこにいても、どんなときでも、自由であるということである。それはいまここで可能であり、自分が完全に満たされ、自由な存在であるという本質を理解することである。それが『モークシャ(自由)』である。」
(12)「この世界のいたるところにある世界を巡らせる力と法則は、常に人に望むものを与え続けている。人は当たり前のように、この力が与えるものを受け取っている。たとえば、太陽の光や、水、呼吸する空気や、足をつけている大地、体を養う食べ物など。自分を育む力を思い、感謝し、祈り、行いを捧げるべきである。そうしないのは恩知らずなことだし、泥棒と同じだ。」
(13)「人を育み、守り、支えている世界を巡らす力と法則を理解する人は、食べ物を食べる前に感謝の気持ちと尊敬を捧げる。捧げられた食べ物を食べる人は、不徳な行いから生じる罪の意識、不快な思いから解放される。一方生き物を育む力をまったく理解せず、敬意を示さずに、自分のためだけになにかをする人は解放されることがない。自分のためだけに料理とし食べる人は、不徳や不純を食べているも同然だ。」
(14)「生きているものの肉体は、食べ物から生まれる。食べ物は、大地に降る雨によって育ち、実る。雨は人の正しい行いや祈りの結果によってもたらされる。この結果はすべて「行い」から生まれている。」
(15)「祈り、儀式という行いは、『ヴェーダ(聖典)』から生まれた。聖典は『イーシュヴァラ(全体世界)』から生まれ、この世界がある限り変わる事がない。すべてに満ちている「存在」は『ブラフマン(普遍な存在)』と呼ばれ『イーシュヴァラ(全体世界)』の言葉が『ヴェーダ(聖典)』である。
聖典から祈りや儀式は生まれ、行いが生まれる。行いの結果として雨が振り、食べ物が育ち、生き物が生まれ、人はまた行いをする。」
(16)「人が自分の行いを、世界を巡らす力と法則に捧げる態度で行えば、世界がその気持ちに必ず答える。正しい態度でする行いが世界と親密な関係を築く方法になると知ったら、人はいつも『ダルマ(調和)』に生きて行けるだろう。秩序において、世界から必要なものを受け取り、人は自分のすべきことを祈りと感謝の気持ちで成し遂げる。思いと敬意を「行い」によって世界に放つ事によって、世界が人を育み、守るのである。この全体と個のつながりを見ない人は、身勝手な感覚の喜びのみにとらわれ、不徳を重ね、人生を無駄にしてしまうだろう。」
(17)「自分自身の真実に喜ぶ人は、自分に満足し、寛ぐことができる。彼は自分自身を単なる個人、『カルター(行い手)』だとはみていない。その人にとって、個人の思いや欲望を叶えるためにしなければならないことは何もない。」
(18)「自分自身に喜べる人は「行い」で何かを獲得することも、野望を叶える事も、自分以外の何かを手に入れる事も、本当の意味で自分を満たす事がないと知る。自分が幸せになるために物事をつけ足すことや、状況に頼ることは必要がない、ということを知る。」
(19)「問題の根本にある『ラーガ•ドヴェーシャ(好き•嫌い)』という思いから生まれる執着を手放し、すべきことを正しい態度で果たすが良い。個と全体の関係を深める為に行いを捧げ、欲望や迷いで混乱した知性と心を整えるために、“すべきことをして、結果を受け入れる”という『カルマヨーガ(行いのヨーガ)』の態度で行いをする。そうして人は初めから自由であり、幸せの源である自分自身を知るだろう。」
(20)「過去の偉大なる王ジャナカや他の王たちは、行いを自分の「好き•嫌い」でなく、何をするべきかという『ダルマ(調和)』を基準として選び、己の心を磨き、『カルマヨーガ(行いのヨーガ)』の態度ですべきことを果たした。そして国の王という立場でありながら、行いを『ヨーガ』にすることによって完全な自由を得た。彼らは出家などせず、世を捨てたりはしなかった。同じようにアルジュナよ。君は王家の者として生まれた。国を守り、人を守り、秩序を守ることを望まれている。『ダルマ(調和•秩序)』が乱れた混沌の中で、『アダルマ(無秩序)』へ向かう人々を守り導く事を任されたものとして、君は君のすべきことを果たすが良い。」
(21)「人々は、重要であると思われる人の行いに従う。その人がどんな風に世界に接し、行いをするか?人々はそれをみて彼に従う。その人が正しいことを行えば、人々は正しい事をする。望まれたリーダーである君が適切なことをすれば、世界の人々は皆君に従うだろう。」
(22)「アルジュナよ。私にとって、この世界で、地上や、天国といわれるすべての領域において達成しなければならないことは何もない。達成されていないこともない。私には、得ることも失う事もない。それでも私の心や体は、今もこうして君の馬車を操り、君と話し、行いをしているかのようである。」
(23)「どんなときでも、私が怠惰で無関心になり、行いをしなければ、人は怠惰な私に従ってしまうだろう。楽なほうに流される性質のある人々が、何もしないで楽をしている私を見れば、そちらに流されてしまうだろう。だから私は心と体という道具を使い、止まる事なく動いているのだ。」
(24)「私が行いをしなかったら、人々は怠惰な私に従い、行いをしなくなるだろう。行いをしなければ、人の心にある「好き•嫌い」という思いは行き場をなくし、澱のようにたまり、身動きがとれなくなってしまう。人々は知恵と分別を失い、狂気に自分自身を破壊してしまうだろう。私が行いをしなければ、人々に悪い例を示す事になるし、世界の混乱の原因となってしまうだろう。」
(25)「バーラタの勇者アルジュナよ。自分自身についての知識がない人や、自分が何を求めているかわからない人は、熱心に物事の結果だけを求めて行いをする。それと同じような熱心さで、賢者も行いをしているのだ。しかし、賢く知恵のある者は、結果についての過剰な期待や心配がない。行いの結果は、法則が連なる全世界によって与えられるものであり、個人がどうにかできるものではないことを賢者は知っている。だから彼は結果への執着を手放す事ができる。そして『ダルマ(調和)』を生き、人々を守る事だけを望むのだ。」
(26)「自分自身の真実を知る者は、他人が行いで得られる結果にこだわったり、心配したり、執表していても、彼らをけなしたり、邪魔したりはしない。自分が何者であるかをはっきりと知りながら、望まれた事を正しい態度で行うのみだ。そして自分自身のことをまだ理解していない人々を励まし、導き、彼らの人生の良き道標となる。」
(27)「行いは、体•心•感覚の集合体である『プラクルティ(可能性、根本原理)』のグナ(質の変化)によって為される。しかし自分自身の本質は、この集合体ではない。自分自身について混乱している人は、自分は体•心•感覚であり、行い手であり、個人であるという認識を自分に下す。」
(28)「勇者アルジュナよ。自分の真実を知る賢者は、本当の自分とは日々変わりゆく肉体•心•感覚でも、『カルター(行い手)』でもないことを知っている。このことを知る人は、自分自身の本質が「個」であるという間違った自我意識の縛りから解き放たれている。だから賢者は個人を縛る『カルマの法則(行いと結果の因果律)』から自由なのだ。」
(29)「物質の源『プラクルティ(可能性、根本原理)』から現れた物に惑わされる人たちは、肉体•心•感覚を自分自身だと思い込み、自分の本質とは個人であり、『カルター(行い手)』であると考え、『カルマの法則(行いと結果の因果律)』に縛られてしまう。しかし真実とそうでないことを見極めている賢者は、それを知らずにカルマに縛られている人の助けはしても、邪魔はしない。真実を知る人は、「行いは人を自由にしない。だから行いを放棄せよ。」とか「お金の為に働くべきではない」などといって、不必要に人の人生の探求を邪魔する事はないものだ。」
(30)「物事じへの切望や執着と結びついた結果を手放し、自分を縛る野心や「これは私の物!」と限定する思いを解き放ち、『イーシュヴァラ(全体世界)』に行いを一致させるのだ。正しいこと•正しくない事を知り、君をとりまく世界の調和を理解し、不満も怒りもない澄んだ心で、今君に与えられた事を果たすべきだ。アルジュナよ、戦うのだ。」
(31)「『イーシュヴァラ(全体世界)』の力を知り、全体と関わり、その教えに生きる人は行いから自由になるだろう。教えを疑い、欠点を見つけようとすることなく、信頼をもって受け入れる人は、『カルマの法則(行いと結果の因果律)』によって重ねられた過去の膨大な行いの結果からも自由になる。」
(32)「だが反対に、『イーシュヴァラ(全体世界)』を視野にいれて物事を捉えることなく、理由もなく批判し、調和に反して生きれば人は迷う。正しい事、正しくないことという『ダルマ(秩序)』において迷い、真実において混乱し、自分を生かす大きな法則を忘れ、本当に求めていることがわからなくなってしまう。自分勝手で利己的な思いで行いをする事で知性が迷い、人は大切な人間性を失ってしまう。
(33)「ここまで私が話した中で、君の中に疑問がおこったかもしれない。なぜある人は宇宙の教えに従い、ある人は教えに従わないのか?なぜ人は調和でなく、調和以外のことを求めてしまうのか?人は過去の人生や、経験から積み上げられてきた性質に縛られ、それをもとに行いをする。物事に対する好みは様々であるように、個々の趣向や性質は過去からの体験と記憶からなる。賢者ですら、もともと備わっている性質がある。生き物はそれぞれに特有の性質を持って生きている。何者もその性質を変える事はできない。
(34)「人にはそれぞれ「好き•嫌い」という思いがあり、それは持って生まれた性質による。「好き•嫌い」は誰にでもあり、人の持つ特性であるからこの思い自体は問題ではない。しかし、もし人がこの2つの思いに巻き込まれてしまったら、その思いは敵となる。行いをする時に、自分の中にある思いへのこだわりを見たら、その時こそ『ダルマ(調和)』を行いの判断基準にする必要がある。そのような意志によって『ダルマ(秩序)』を基準にして選ばれた行いは『ヨーガ』となる。」
(35)「人は自分に与えられたことを成し遂げるべきである。たとえ他人のするべきことが簡単そうにみえて、自分の方がうまく出来るかもしれないと思っても。自分に与えられたことがどんなに難しくても、不完全にしか出来なくても、与えられたことを果たすことが大事なのだ。たとえ与えられた状況や役割を、完全に果たすことができず、死によって途中で終わってしまうことになったとしても、それは為されるべきである。他人のすべきことを自分と比較したり、混同したりすることがないように。それは人に恐れと不安を起こすだけである。人は皆、その人にしかできないことが与えられている。他人のすべきことはあくまでも他人のものだ。競わず、恐れず、自分のすべきことをまっすぐに受け入れ、立ち向かうのだ。」
(36)アルジュナは聞きました。「クリシュナよ。それでは人はなぜ不徳な行いをしてしまうのだろう?望んでもいないのに、心の中にいる誰かに駆り立てられるように罪深い行いをしてしまうのはなぜでしょう?」
(37)バガヴァーン・クリシュナは言いました。「人を不徳な行いに駆り立てる悪魔は『カーマ(欲望)』である。欲望は、それが叶わぬ時に怒りとなる。欲望は動きと力、『ラジャス(激質)』をその性質として持ち、燃える火のようにとどまることを知らない。そして、人を一生の後悔に陥れるほど、強力で罪深い敵となることがある。この世界において、人の敵となるものは、まさに人の心の中にあるものであると、どうか君が知るように。」
(38)「燃えている火は煙に隠れて、炎の輝きが見えなくなる。それと同じように、知性の輝きは同じ心から湧く欲望にかき消され、見えなくなってしまうことがある。埃で汚れた鏡の輝きはみえないように、心が欲望で曇れば、知性は見えなくなってしまう。また知識は子宮に宿る胎児のように、そこにいるとわかっていても、月日を重ね、時間をかけて生まれてくる日を待たなければならないように、そこに宿っているはずの知識を見るためには、時間をかけて意志と努力を持って欲望を扱わなければならない。」
(39)「アルジュナよ。知識は欲望に覆われてしまっている。欲望は、満たされる事なく。貪欲に燃やし尽くす炎のように燃え続ける。欲望という火は、燃料をくべるほどに燃え上がる炎のように、いつまでも満たされることがない。欲望は何が正しく、何が正しくないか?という分別ある知者にとって最大の敵である。満たされることのない欲望は、分別の知識よりも強い力があるから。」
(40)「欲望は、感覚・心・知性が共に働く場所にあるといわれる。しかし、感覚・心・知性・肉体は欲望ではない。欲望は肉体という場所にある感覚器官を通して、心に映る。心に映った欲望は知性を動かし、行いとして現れる。こうして人の心と行いに結びついた欲望は、その人を惑わせる。」
(41)「バーラタの勇者アルジュナよ。人にとって最も大切な自由への知識を理解するために、知性を奪う罪深い『カーマ(欲望)』を、治めなさい感覚と心に結びつく欲望の動きにたえず目を光らせ、欲望がやってきているのをみたら、断固とした姿勢で向かい合い、心が引きずられないように距離をおきなさい。はじめに感覚をコントロールすることを覚えるのだ.欲望の奴隷となるのでない。君が欲望の王となるのだ。」
(42)「感覚は肉体よりも微かで、全身に広がっている。感覚は肉体が届かない所も行き渡る。それゆえ、感覚は肉体よりも優れているといわれる。その感覚より微かで、大きな広がりを持つのが心だ。感覚の届かない所に、心は広がる。そして心より優れているのが知性である。心は迷い、躊躇もするが、知性は迷う事がない。感覚も心も知性の内にある。知性まで『カーマ(欲望)』の力は及んでいる。そして知性よりも優れているのが『アートマン(真我、真実)』本当の君自身だ。自分自身の真実は、知性でも、心でも、感覚でも、肉体でもない。それらを成り立たせていながらも、それらから影響を受ける事のない「存在」である。君自身の真実は限りがなく、永遠で、どんな欲望からも自由である。」
(43)「勇者アルジュナよ。何が真実で、何が真実ではないのか?これを見極める知識を理解すれば、君の心は静寂のまま、欲望に揺り動かされる事はない。君の本当の敵は欲望という姿をしている。欲望をすべて理解するのはとても難しい。なぜなら何かを望むのには理由があり、その理由にはまた理由があるように、欲望はその他の因果と複雑に絡まりあっている。しかしはっきりしていることは、すべての欲望は「無知」に根ざしている。自分自身の真実を知らないという「無知」が欲望の原因である。この「無知」を破壊するのが知識である。」

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